火垂るの墓は実話だが真実はもっと悲惨だった。野坂昭如の言葉。

「火垂るの墓」の真実 – 原作者・野坂昭如が語る衝撃の実話
小説・アニメ「火垂るの墓」の清太と節子の兄妹のモデルは、原作者の野坂昭如氏と妹の恵子さんです。
西宮から福井に移った後に1才6ヵ月で餓死した義妹「恵子」への贖罪の気持ちがこの小説となっています。
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真実は小説のように儚く散った命の物語ではなく、リアルな悲惨な戦争の悲劇だったのです。 真実を知ってしまうと、また胸が悲しさでいっぱいになりました。
目次
アニメ版と実話の決定的な違いとは
アニメ「火垂るの墓」は、戦時中の兄妹の悲劇として多くの人々の心に刻まれていますが、原作者の野坂昭如氏が語る実話はさらに壮絶なものでした。
アニメの主人公・清太と節子のモデルは、野坂氏本人と義妹の恵子さんです。
野坂氏は後年、衝撃的な告白を自叙伝に残しています。「自分は清太のような良い兄ではなかった」と語り、当時14歳だった自身が1歳6ヶ月の妹に対して行った行為を詳細に明かしました。
食べ物を与えず、暴力を振るい、時には脳震盪を起こすほどの暴力もあったといいます。
この告白は、アニメで描かれた「妹思いの兄」というイメージを大きく覆すものでした。
野坂氏は朝日新聞(1969年2月27日号)で「せめて小説に出てくる兄ほどに、妹をかわいがってやればよかった」と悔やんでいます。
野坂昭如が綴る『火垂るの墓』の原点「食欲の前には、すべて愛も、やさしさも色を失った」 「プレイボーイの子守唄」|連載|婦人公論.jp
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アニメと実話の7つの決定的な違い
アニメ「火垂るの墓」は芸術作品として高い評価を受けていますが、野坂昭如氏の実体験とは大きく異なる点がありました。以下に主な違いを詳しく解説していきます。
- 妹の年齢と人数
- アニメ:4歳の節子1人
- 実話:1歳6ヶ月の恵子。実は他にも1人妹がいた(病死)
- 理由:物語の展開上、会話ができる年齢に設定された
- 両親の状況
- アニメ:空襲で両親を失う
- 実話:養父が行方不明になったが、養母は重傷を負うも生存
- さらに:実の父親(後の新潟県副知事)は生存していた
- 生活環境・西宮のおばさんはいい人だった
- アニメ:防空壕での孤立した生活
- 実話:西宮の親戚宅で生活
- 重要:親戚は実際には面倒見のよい人物だった
- 兄の態度・実は妹に食べ物を与えていなかった・妹を日常的に叩いていた
- アニメ:妹思いの優しい兄
- 実話:食べ物を独占し、暴力も振るう
- 告白:「粉ミルクまで飲んでしまった」と後年語っている
- 生活状況・防空壕で生活はしていなかった
- アニメ:完全な孤立状態
- 実話:親族のサポートあり
- 補足:当時の一般的な戦災孤児の状況を反映して創作された
- 死因の背景
- アニメ:戦争による不可抗力的な死
- 実話:兄による世話の放棄が大きな要因
- 重要:作者の贖罪の念が作品の根底にある
- 物語の舞台
- アニメ:神戸から西宮への移動
- 実話:最終的に福井へ移動
- 詳細:地理的な設定も大きく脚色されている
これらの違いは、野坂氏自身が様々な機会に語っており、特に朝日新聞や「わが桎梏の碑」などの著作で詳しく明かされています。これらの事実は、作品の解釈に新たな深みを与えると同時に、戦争の現実の残酷さをより鮮明に伝えています。
【事実との違い1】妹は2人いたし、妹は1才6ヶ月だった
野坂昭如氏は生まれてすぐに張満谷(はりまや)家の養子となりました。張満谷家には血の繋がらない2人の妹がいましたが、このことは11歳になって偶然戸籍を見るまで知りませんでした。
上の妹は戦前に病気で亡くなっているため、「火垂るの墓」の時代設定では確かに妹は1人でした。
しかし、小説の節子(4歳設定)のモデルとなった下の妹・恵子は実際には1歳6ヶ月。まだほとんど言葉を話せない年齢でした。
実際の悲劇は、野坂氏が14歳、妹の恵子がわずか1歳6ヶ月の時に起きました。しかし、小説では節子は4歳に設定されています。 これには物語上の理由がありました。
1歳半では物語を展開するための会話ができず、兄妹の交流や感情の機微を描きにくいためでした。赤ん坊では物語を効果的に展開できないため、作者は意図的に年齢を上げました。
アニメでも節子を4歳という設定にしています。これも純粋に創作上の必要性からです。そうすることで、兄妹の会話やケンカ、遊び、そして甘えるシーンなど、感情的な交流を描くことが可能になりました。
特に、元気な頃の無邪気な姿と、衰弱していく姿の対比が、物語の重要な要素となっています。 この年齢設定の変更は、作品のドラマ性として重要な役割を果たしていますが、同時に実際の悲劇の深刻さを別の形で隠すことにもなってしまいました。
アニメでは、たどたどしく「あんちゃん…」と呼ぶ節子の声に胸を打たれる場面がありますが、実際の恵子にはそれすら難しい年齢だったのです。
【事実との違い2】空襲で両親を亡くしていなかった
アニメでは、神戸大空襲で両親を失う清太と節子の設定が物語の重要な起点となっていますが、実際はかなり異なっていました。
野坂氏は既に養子に出されており、血縁関係のある両親については複雑な状況にありました。
実母は野坂氏が幼い頃に既に亡くなっていましたが、実父(後に新潟県副知事となる野坂相如氏)は生存していました。
養父は空襲で行方不明になりましたが、養母は大けがを負ったものの生き延びていました。
また、一緒に暮らしていた義祖母も無事でした。 この設定変更は、孤立無援の兄妹という物語の構図を作るために必要だったと考えられますが、家族構成や経緯の脚色は作品の中でも最も大きな創作部分の一つです。
【事実との違い3】西宮のおばさんはいい人だった
アニメでは自分の子供を優遇し、清太たちを差別する冷たい親戚として描かれた西宮のおばさんですが、実際は全く異なる人物でした。
現実のおばさんは、野坂少年と妹の恵子、さらに負傷した養母とその母親までを引き取って世話をしてくれた、むしろ献身的な人物だったのです。
よく観察するとアニメでも大人たちも雑炊を食べている場面があり、清太だけが意地悪されていたわけではなく、当時の厳しい食糧事情を反映した設定となっています。
戦後の混乱期に親族を受け入れること自体が、相当な負担だったことは想像に難くありません。
ちなみに野坂氏はこの家にいた2歳年上の三女「京子」に恋心を抱き、そのために妹の世話がおろそかになっていたという別の事情もあったようです。
【事実との違い4】実は妹に食べ物を与えていなかった、その上、妹を日常的に叩いていた
戦後の深刻な食糧難の中、14歳の野坂少年は生きるために、自分の分を確保することを優先していました。その結果、1歳半の妹への食事は極めて不十分なものとなりました。
特に印象的なのは、雑炊を作った際のエピソードです。野坂氏は自分用に鍋底の米粒を取り、妹には栄養価の低い上澄み液だけを与えていたと告白しています。当時の配給で支給された粉ミルクも、空腹に耐えられず自分で飲んでしまったといいます。
さらに衝撃的なのは、「わが桎梏の碑」での告白です。衰弱していく妹を横目に自分だけが食事をし、最後には妹の太ももにさえ食欲を感じたと記しています。当時の日本では似たような状況が各地で起きていましたが、野坂氏はこの事実を生涯にわたって悔やみ続けました。
また、妹を日常的に叩いていたとも告白しています。
アニメでは優しく妹の世話をする清太像が印象的ですが、現実は大きく異なっていました。満足な食事を与えられない1歳半の赤ちゃんは当然のように夜泣きをしましたが、自身も空腹で苦しんでいた14歳の野坂少年は、その泣き声に耐えられませんでした。
野坂氏の告白によると、夜泣きを止めようとして妹を叩いたり激しく揺さぶったりしたことがあり、時には脳震盪を起こすほどの暴力を振るうこともあったといいます。生活が苦しくなるにつれ、その不満のはけ口を妹に向けることが増えていきました。
「自分は、火垂るの墓の清太のようないい兄では無かった。・・・恵子には暴力を振るったり、食べ物を奪ったり・・・」 「泣き止ませるために頭を叩いて脳震盪を起こさせたこともあった」 野坂昭如「私の小説から 火垂るの墓」(朝日新聞 1969年2月27日号に掲載) 野坂昭如「プレイボーイの子守唄」(婦人公論 1967年3月号に掲載)
まだ子供だった野坂少年には感情をコントロールする余裕がなく、現代で言えば深刻な虐待に当たる行為を繰り返していました。この事実は、後年の野坂氏を深く苦しめることになります。
ぼくはせめて、小説「火垂るの墓」にでてくる兄ほどに、妹をかわいがってやればよかったと、今になって、その無残な骨と皮の死にざまを、くやむ気持が強く、小説中の清太に、その想いを託したのだ。 野坂昭如「私の小説から 火垂るの墓」(朝日新聞 1969年2月27日号に掲載)
【事実との違い5】防空壕で生活はしていなかった
アニメのクライマックスで重要な役割を果たす防空壕での生活ですが、これも創作です。上述の通り、実際には西宮の親戚宅で保護されていました。防空壕を使った描写は、当時の世相を象徴的に表現するための選択だったといえます。
手塚治虫の「ぼくはマンガ家」(角川文庫)によれば、当時の大阪駅前には餓死した子供の遺体が転がっているような悲惨な光景が見られたといいます。「火垂るの墓」の防空壕の設定は、そうした戦後の極限状態を凝縮して描いたものと考えられます。
同じように、アニメの冒頭で三宮駅の片隅で息絶えた清太の姿は、当時の飢餓状況を象徴的に描き出し、その孤独さや過酷さを痛感させる印象的なシーンとなっています。 この描写は、孤立無援の兄妹という物語の構図をより鮮明に打ち出すためのものですが、同時に戦後日本の過酷な現実を象徴的に表現することにも成功しています。
そして、これらの清太の戦時中の生活状況についての脚色は、後述する宮崎駿監督が「『火垂るの墓』のウソ」という批判に繋がるのです。
【事実との違い6】「不可抗力」ではなかった死
アニメ版では、戦場の混乱と物資不足による「不可抗力的な死」として描かれています。
しかし実際には、野坂昭如氏が14歳という幼さで妹の世話を担わざるを得なかった環境と、その中で食糧や医療を十分に確保できなかった現実が大きく影響しました。
とりわけ野坂氏自身が後年語っているように、妹を放置してしまった時間や、十分な看護を施せなかった事実が「直接的な死因」として大きくのしかかっていたのです。
作者自身の深い贖罪の念が作品全体の根底に流れているのです。 アニメ版が訴えかける“戦争の悲惨さ”と重なり合いながらも、実話における「兄による世話の放棄」という厳しい現実こそが、作者が生涯にわたって背負い続けた痛切な記憶でした。
こうした背景を知ることで、『火垂るの墓』に込められた複雑なテーマと、野坂昭如氏の切実な思いをより深く理解できるでしょう。
【事実との違い7】妹が亡くなったのは疎開先の福井だった
野坂昭如氏の実話においては、舞台となる神戸や西宮のほかに“疎開先の福井”が大きな転換点となります。
戦火の拡大により西宮の親戚宅を離れ、福井県へ移動せざるを得なかったのです。
しかし、疎開先でも十分な食糧や医療を確保できず、野坂少年(当時14歳)は幼い妹・恵子の世話を満足に行うことができませんでした。結果として、妹は深刻な栄養失調に陥り、そこで命を落とすことになります。
アニメ版では防空壕での生活が描かれますが、実際にはこの福井での生活環境こそが“決定的な孤立”を生み出し、妹を救う手立てがほとんどないまま死に至らしめた要因でした。兄の保護が行き届かず、誰にも助けを求められないという過酷な現実が、野坂氏に深い贖罪の念を刻み込むことになったのです。
こうした体験は後年『火垂るの墓』に大きく反映され、戦争の悲惨さだけでなく、“最も守りたい存在を守れなかった”という痛切な記憶として作品全体に影を落とし続けます。
「火垂るの墓」作者が妹と死別した地は福井県 小説に出てくる妹の「黄楊の櫛」買った店、今も実在 | 催し・文化,社会 | 福井のニュース | 福井新聞ONLINE
では、アニメと実話の同じところはあるのか?
原作小説「火垂るの墓」や高畑勲監督によるアニメ「火垂るの墓」は多くの点で脚色されていますが、実体験に基づく重要な要素も取り入れられています。
実際の出来事とアニメの共通点で、印象的な2つの場面を紹介します。
ドロップ缶に遺骨を入れたのは本当
アニメの中で最も象徴的な小道具の一つが「サクマのドロップス」の缶です。
節子が最後まで大切にしていたこの缶は、後に彼女の遺骨を入れる容器となります。
実際、野坂氏の自伝的小説『行き暮れて雪』には「福井駅から二つ目のH町」に廃業した機屋(はたや)があり、そこへ住み着いたと記されています。
さらに、証言によると夏の暑い日には近くの広照寺(江留上昭和)へ涼みに出かけ、おそらく江留上日の出周辺で暮らしていたのではないかと推測されています。
しかし終戦間際の混乱の中で十分な医療や食糧も得られないまま、妹は1945年8月22日に衰弱死。 妹の恵子が1歳6ヶ月で亡くなった後、当時は墓地だった現在の旭公園(江留上旭)で野坂氏自身が火葬を行ったといいます。
しかし、経験不足と燃料不足も重なり、十分な火力を得られず、わずかな骨しか残らなかったそうです。そのわずかに残った遺骨をドロップ缶に収めるしかなかったといいます。
その少ない遺骨をドロップスの空き缶に入れたという事実は、そのまま作品に取り入れられました。
「火垂るの墓」作者が妹と死別した地は福井県 小説に出てくる妹の「黄楊の櫛」買った店、今も実在 | 催し・文化,社会 | 福井のニュース | 福井新聞ONLINE
この小さな缶に入る程度の骨の量が、儚く短い命の象徴として作品内で強い印象を与えています。現実と創作が交差するこの要素は、作品の情緒的な核心部分を形成しているといえるでしょう。
蚊帳の中で蛍を放したのは本当
作品のタイトルにもなった「蛍」。はかない命の象徴として物語の中で重要な意味を持つこの場面も、実際の体験に基づいています。
野坂氏は妹を喜ばせるために蚊帳の中で蛍を放して見せたことがあり、その記憶が作品に反映されました。
蛍のきらめきが子供たちの暗い日常に一瞬の輝きをもたらす場面は、戦時下のわずかな癒しの瞬間を象徴しています。アニメでは特に美しく印象的に描かれ、多くの視聴者の心に残る場面となりました。
実体験に基づくこの要素は、作品に生々しいリアリティを与えると同時に、野坂氏の複雑な感情—妹への愛情と後悔が入り混じった記憶—を表現する重要な役割を果たしています。
泣けるアニメナンバー1の評価を世界で獲得
「火垂るの墓」は日本国内だけでなく、世界中で「最も泣けるアニメ」として高い評価を受けています。その普遍的な感動力は、文化や国籍を超えた人間の共感を呼び起こしています。
あるテレビ番組で「外国人がアニメ『火垂るの墓』を見て泣くのか?」という企画が実施され、様々な国の人々に作品を鑑賞してもらいました。結果は予想通り—国籍を問わず、ほとんどの視聴者が涙を流しながら見ていたのです。
この反応は、戦争の悲惨さや幼い命が失われる理不尽さが、人類共通の感情に訴えかけることを示しています。特に子供の視点から描かれた戦争の残酷さは、どの文化圏の人々にも強く響くメッセージとなっているのです。
なお、私はこの映画が嫌いです。観ると、私の価値観である児童養護の思想に反するこの戦争の理不尽さに、怒りが沸いてくるからです。
宮崎駿監督が指摘した「火垂るの墓」のウソ
同じスタジオジブリの宮崎駿監督は、「火垂るの墓」の設定に対して鋭い指摘をしています。宮崎監督は物語の前提に潜む矛盾を次のように批判しました。
『火垂るの墓』の主人公である清太の父親は海軍大佐(アニメ版)だった。 巡洋艦の艦長の息子は絶対に飢え死にしない。 それは戦争の本質をごまかしている。 それは野坂昭如が飢え死にしなかったように、絶対飢え死にしない。 海軍士官の息子なので、父親が戦死したとして相当な額の補償金が入り保護もあったはずです。 しかも7,000円というお金を持ち(当時)病院で節子を見ることも出来ていた。 稲葉振一郎著『ナウシカ読解 ユートピアの臨海』
『火垂るの墓』の主人公・清太の父親は海軍大佐(アニメ版)です。当時の軍人、特に高級将校の家族は特別な保護を受けており、野坂昭如自身が飢え死にしなかったように、構造的に飢え死にしない立場だった。
また、父親が戦死した場合でも相当額の補償金が支給され、公的な保護もあったはずです。さらに作中で清太は7,000円(当時としては大金)を持っており、病院で節子を診てもらうこともできたはずなのです。
宮崎監督は、この設定が「戦争の本質をごまかしている」と指摘しました。この批判は、作品の感動性と歴史的・社会的リアリティの間の齟齬を鋭く突いたものといえるでしょう。
高畑勲監督が語った「火垂るの墓」の真実のテーマ
宮崎駿監督の指摘に対し、高畑勲監督は「火垂るの墓」の真のテーマについて重要な見解を示しています。作品は単純な反戦アニメではなく、より普遍的かつ現代的なメッセージを持っているのです。
高畑監督によれば、本作の悲劇は戦争だけが原因ではありません。核心は「社会との関わりを拒絶して生きる清太の選択」にあるといいます。彼は『スタジオジブリ作品関連資料集II』で次のように述べています。
「周囲の人々との共生を拒絶して社会生活に失敗していく姿は現代を生きる人々にも通じるものである」 「特に高校生から20代の若い世代に共感してもらいたい」 「反戦アニメなどでは全くない、そのようなメッセージは一切含まれていない」 『スタジオジブリ作品関連資料集II』スタジオジブリ
この視点から見ると、清太の悲劇は彼の社会からの孤立の選択にあり、それは現代社会でも起こりうる問題です。
アニメ冒頭の「昭和20年9月21日夜、僕は死んだ」という独白は、清太と節子が幽霊となって過去を追体験するループの始まりを示しています。
高畑監督は「清太と節子の幽霊を登場させていますが、この幽霊たちはこの体験を繰り返しています」と説明しています。これは悲劇から学べない魂の永遠の苦しみを象徴しているのかもしれません。
まとめ:「火垂るの墓」は実話を元に書かれた贖罪の小説である
「火垂るの墓」の背景には、野坂昭如氏の複雑な家族史があります。
彼は生後まもなく張満谷家の養子となりました。実父は後に新潟県副知事を務めた野坂相如氏でしたが、実父母は別居しており、野坂氏を産んですぐに実母は亡くなっています。
自分が養子であると知ったのは11歳の時。偶然戸籍を見て初めてその事実を知りました。張満谷家には血の繋がらない二人の妹がおり、当初は上の妹にはある程度の愛情を注いでいましたが、その妹は早くに病死してしまいます。
戦争が進み、生活が厳しくなるにつれて下の妹への世話も行き届かなくなり、最終的に栄養失調で1歳6ヶ月という幼さで亡くなりました。
野坂氏はこの経験を贖罪の気持ちを込めて小説化しましたが、主人公の兄を美化して描いたことが後に彼自身を苦しめることになりました。自らの行為と向き合い、それを芸術として昇華させる過程で、野坂氏は深い葛藤を抱えていたのです。
「火垂るの墓」は「アメリカひじき」と共に収録された文庫本で読むことができます。原作には野坂氏の生々しい体験と贖罪の念が込められており、アニメとはまた違った感じ方を与えてくれるでしょう。
「アメリカひじき/火垂るの墓」直木賞の選評
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最後に、各作家の選評を紹介します。
1968年、野坂昭如氏の「アメリカひじき/火垂るの墓」は第58回直木賞を受賞しました。選考委員たちの評価は、作品の革新性と深い人間性を鋭く捉えています。以下に主な選評を紹介します。
海音寺潮五郎は、「大坂ことばの長所を利用しての冗舌は、縦横無尽のようでいながら、無駄なおしゃべりは少しもない。十分な計算がある。見事というほかはない」と評し、「前者(アメリカひじき)に使われている材料はぼくの好みではないが、描写に少しもいやしさがなく、突飛な効果が笑いをさそう。感心した」「後者(火垂るの墓)の結末は明治調すぎて、古めかしすぎて乗って行けなかったが、自伝的なものがありそうだから、こうせざるを得なかったのであろう」と述べている。
川口松太郎は、「直木賞作家の本命とはいい難く、君の技量は逆手だ。文章のアヤの面白さに興味があって事件人物の描写説得は二の次になっている」とし、「野坂君が独特の文体の上に、豊かな内容をもり込む作家になってくれたらそれこそ鬼に金棒だ」と助言をしている。
大佛次郎は、「この装飾の多い文体で、裸の現実を襞深くつつんで、むごたらしさや、いやらしいものから決して目を背向けていない」と述べ、「作りごとでない力が、底に横たわって手強い。この作家の将来が楽しみである」と評している。
石坂洋次郎は、「こう短くきれぎれに書かないで、この題材で長篇を書かれたら――と残念に思った」、「ともかく多才の人であり、底に手ごたえのあるものを感じさせる作家だ」と評している。
中山義秀は、「文芸作品はつねに時代を、最も敏感に反映する、とされているとおり、(中略)異色ある文体に、シニカルな老練さを味わった」と評している。
村上元三は、「『火垂るの墓』よりも、『アメリカひじき』のほうがわたしには面白かった。はじめは取っつきにくく、気障なとまで思った文章も、こうなると芸のうちであろう」と評価している。
水上勉は、「出来がよく、野坂氏の怨念も夢もふんだんに詰めこまれて、しかも好短篇の結構を踏み、完全である。感動させられた」と述べている。
松本清張は、「私の好みとしては『アメリカひじき』よりも『火垂るの墓』をとりたい。だが、野坂氏独特の粘こい、しかも無駄のない饒舌体の文章は現在を捉えるときに最も特徴を発揮するように思う」と評している。
柴田錬三郎は、「さまざまの話題をマスコミにまきちらし乍ら、とにもかくにも、文壇へふみ込んで来たその雑草的な強さは、敬服にあたいする。私は、『火垂るの墓』に感動した。劇作者的文章が、悲惨な少年少女の最後を描いて、効果をあげたことは、われわれ実作者に深く考えさせるところがあった」と高い評価をしている。
「第58回直木賞(昭和42年度下半期)選評」(オール讀物 1968年4月号に掲載)
選考委員たちに共通するのは、野坂氏の独特な文体と、その背後にある深い人間性への評価です。装飾的でありながら本質を突く文章力、そして戦争という重いテーマを扱いながらも普遍的な人間ドラマとして昇華させた力量が高く評価されました。
この直木賞受賞は、野坂氏の文学者としての地位を確立すると同時に、後の「火垂るの墓」アニメ化への道を開く重要な契機となったといえるでしょう。